今日もシナリオは進む。
舞台で書かれていた台本とは少しずつ変わる。
大きく違うのは、フィールドが増えたことだ。
舞台は、プロセミアム形式ならなおの事、前からしか観ることは出来ない。
映像は、前から横から後ろから、場合によっては上から。下から。
様々な角度から撮影される。
そして、そのフィールドは、想像以上に広い。
一番難しい芝居は、何もしないことだ。
何もしないで映像に映って、それが説得力を持ち、セリフ以上に多くの事を語れることだ。
無表情は、無表情という表情だ。
何もしない。
けれども、伝わる。
禅に近いような考え方だけれど、究極の演技はそういう事になる。
そこにいるだけで、そこにいるという説得力があるのかどうか。
何かを聞かれても、無表情であれば、なぜこの人はリアクションをしないのだろう?という意味が付く。
その意味を最大限に活用できるかどうかが、本当の技術だと思う。
何もできないのではなくて、何もしないという意思になるからだ。
舞台台本をもらう時。
いつもドキドキワクワクしている。
それはまるで、週刊漫画を追いかけるかの如く。
次はどうなるのだろう?この後の展開はどうするのだろう?
お客様と同じ目線で、毎週、真新しい台本を楽しみにする。
再演だと少し違ってくる。
あそこはどうやるのだろう?
あのシーンは、どのように変えるのだろう?
展開がわかっている分、理解は深く、理解が深い分、求めるものも強くなる。
今、映像のシナリオを手にして。
想像を限りなく広げている。
おいらの頭の中には絵コンテが出来ていく。
それは、本来、映画監督がやる作業で、役者はそこまでしないのかもしれない。
役者によっては、作品の芯の部分を理解する人や、撮影方法まで想像する人もいると思う。
おいらは、そのカメラアングルまで、想像してしまうようだ。
勝手知ったる物語だ。
この物語をどうやって、映画にしていくのか。
この物語で一番の肝の部分はなんなのか。
役者ごとに違うようでは、きっとぶれていく。
今日、カメラを回して、すぐにモニターで確認するという事を繰り返した。
肉眼で観ていて、ダメだなぁと思う処は、モニターに映し出されると、より目立った。
逆に、肉眼で、ここがいいなぁと思う部分は、モニターに映し出されても、そこまで目立たなかった。
目立たなくても、良いものは良いわけで、それは必ず目立つようになっていくと思う。
ダメな部分は、目立たないようで、どこまで行っても目立つと思う。
意味もなく視線をさまよわせる芝居を今日、肉眼で見つけて。
それをモニターで確認したら、とてもとても違和感を感じた。
幸い、おいらたちには、稽古期間がある。
そして、物語を誰よりも熟知している。
実際に、編集されて次から次に映像が繋がれば気にならない程度の事まで。
おいらたちは、今から修正することが可能だという事だ。
おいらは、ほとんど芝居をする機会がなかった。
しばらくはそんな稽古が続くだろう。
何せ、おいらがやった役は、どこかに行ってしまうんだから。
帰ってくるまではおあずけだ。
その間に出来ることは、自分に出来る目いっぱいの想像力で。
人の芝居から学んでいくことだけだ。
映画でどのやくになるかなんかまだまだわからないけれど。
当然、舞台で演じた役を稽古していくのが一番の近道だ。
本当はこのBLOGに書いてしまいたいことがいくつかある。
ほとんどが朗報だ。
色々と決まってきていることがある。
他にも、面白い話もある。
でも、発表段階にならないと中々伝えられないね。
今は、おいらたちが、稽古をしたり、製作企画を積み立てていたり。
そんな日々を楽しんでいただくばかりだ。
今日の最大の報告は、やはりシナリオが順調に進んでいるという事だ。
それ以上でもそれ以下でもないだろう。
もう、大体50%ぐらいまで、進んだのではないだろうか。
もちろん、映画だとシナリオのページ数も、実際の上映時間も舞台とは違うからわからないけれど。
そして、肉眼の芝居と。
モニターの中の芝居との。
差異を自分の中で明確にしていく。
その繰り返しで良い。
今はすっかり日常だけれど。
この映画に向けての稽古なんて、ほんの数か月前は、夢の話だったんだから。