2016年03月28日

モニターの中の視線

今日もシナリオは進む。
舞台で書かれていた台本とは少しずつ変わる。
大きく違うのは、フィールドが増えたことだ。
舞台は、プロセミアム形式ならなおの事、前からしか観ることは出来ない。
映像は、前から横から後ろから、場合によっては上から。下から。
様々な角度から撮影される。
そして、そのフィールドは、想像以上に広い。

一番難しい芝居は、何もしないことだ。
何もしないで映像に映って、それが説得力を持ち、セリフ以上に多くの事を語れることだ。
無表情は、無表情という表情だ。
何もしない。
けれども、伝わる。
禅に近いような考え方だけれど、究極の演技はそういう事になる。
そこにいるだけで、そこにいるという説得力があるのかどうか。
何かを聞かれても、無表情であれば、なぜこの人はリアクションをしないのだろう?という意味が付く。
その意味を最大限に活用できるかどうかが、本当の技術だと思う。
何もできないのではなくて、何もしないという意思になるからだ。

舞台台本をもらう時。
いつもドキドキワクワクしている。
それはまるで、週刊漫画を追いかけるかの如く。
次はどうなるのだろう?この後の展開はどうするのだろう?
お客様と同じ目線で、毎週、真新しい台本を楽しみにする。
再演だと少し違ってくる。
あそこはどうやるのだろう?
あのシーンは、どのように変えるのだろう?
展開がわかっている分、理解は深く、理解が深い分、求めるものも強くなる。
今、映像のシナリオを手にして。
想像を限りなく広げている。
おいらの頭の中には絵コンテが出来ていく。
それは、本来、映画監督がやる作業で、役者はそこまでしないのかもしれない。
役者によっては、作品の芯の部分を理解する人や、撮影方法まで想像する人もいると思う。
おいらは、そのカメラアングルまで、想像してしまうようだ。

勝手知ったる物語だ。
この物語をどうやって、映画にしていくのか。
この物語で一番の肝の部分はなんなのか。
役者ごとに違うようでは、きっとぶれていく。

今日、カメラを回して、すぐにモニターで確認するという事を繰り返した。
肉眼で観ていて、ダメだなぁと思う処は、モニターに映し出されると、より目立った。
逆に、肉眼で、ここがいいなぁと思う部分は、モニターに映し出されても、そこまで目立たなかった。
目立たなくても、良いものは良いわけで、それは必ず目立つようになっていくと思う。
ダメな部分は、目立たないようで、どこまで行っても目立つと思う。
意味もなく視線をさまよわせる芝居を今日、肉眼で見つけて。
それをモニターで確認したら、とてもとても違和感を感じた。
幸い、おいらたちには、稽古期間がある。
そして、物語を誰よりも熟知している。
実際に、編集されて次から次に映像が繋がれば気にならない程度の事まで。
おいらたちは、今から修正することが可能だという事だ。

おいらは、ほとんど芝居をする機会がなかった。
しばらくはそんな稽古が続くだろう。
何せ、おいらがやった役は、どこかに行ってしまうんだから。
帰ってくるまではおあずけだ。
その間に出来ることは、自分に出来る目いっぱいの想像力で。
人の芝居から学んでいくことだけだ。
映画でどのやくになるかなんかまだまだわからないけれど。
当然、舞台で演じた役を稽古していくのが一番の近道だ。

本当はこのBLOGに書いてしまいたいことがいくつかある。
ほとんどが朗報だ。
色々と決まってきていることがある。
他にも、面白い話もある。
でも、発表段階にならないと中々伝えられないね。
今は、おいらたちが、稽古をしたり、製作企画を積み立てていたり。
そんな日々を楽しんでいただくばかりだ。

今日の最大の報告は、やはりシナリオが順調に進んでいるという事だ。
それ以上でもそれ以下でもないだろう。
もう、大体50%ぐらいまで、進んだのではないだろうか。
もちろん、映画だとシナリオのページ数も、実際の上映時間も舞台とは違うからわからないけれど。

そして、肉眼の芝居と。
モニターの中の芝居との。
差異を自分の中で明確にしていく。

その繰り返しで良い。

今はすっかり日常だけれど。
この映画に向けての稽古なんて、ほんの数か月前は、夢の話だったんだから。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:03| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする