昨日、廃業した旅館が都内近郊にないか調べていた。
もしあれば、室内のシーンのセットを組むのがずっと楽になるからだ。
・・・とは言え、廃業していなければ、営業しているわけで安く借りることは難しいと思う。
どこかにないか・・・なんとなく調べていた。
もちろん、見つかったところで、そこもやはり候補の1つになるだけなのだけれど。
旅館と言うと少し違うかもしれない。
探していたのは「旅荘」と呼ばれる建物だ。
元々は連れ込み旅館と呼ばれていて、その後、ビジネス旅館と名乗るようになった。
通称が旅荘というらしい。
実は、それがまだ営業中なのは知っていた。
人が出てきたり入ったりするのは見たことがないのだけれど。
本当に営業してるのかなぁって思ってる旅荘があったのを思い出した。
調べたら、そこはまだ営業中で、やはり今も利用客がいるんだなぁと知った。
ビジネスホテルの時代に、ラブホテルの時代に、今も普通に営業していた。
廊下の感じや部屋の感じがどうなってるのかなと思っていたんだけど。
まぁ、一人でなんとなく入るわけにもいかない。
そしたら、北千住に一軒、廃業した旅館をみつけた。
あ、ここはいいかもしれない。
すぐにGoogleのストリートビューで確認すると、まだ存在しているみたいだった。
比較的近くに住む高橋2号に見に行ってきてと頼んだら。
そこは、すっかりマンションになっていたという。
悲しいかな、木造建築や、ましてトタンの建物は、毎日取り壊されているという事だ。
都内近郊でロケ候補地を探すのは本当に大変な事なのかもしれない。
条件がすべて整うことはなかなか厳しいと思う。
いきなりあのアトリエをみつけたのは、奇跡に近かったという事だ。
表題の「リアリズムの宿」とは、つげ義春さんの漫画作品の題名だ。
おいらが生まれた年に発表された漫画で、のちに映画化もされている。
「ゲンセンカン主人」とかね。
十代後半にむさぼるように読むふけった作品群だ。
おいらは、すっかり、メメクラゲに刺されていた。
あの漫画のイメージが強烈すぎて、どうしてもそんな見た目の宿がないか探してしまう自分がいた。
けれども、あながち間違ってはいない。
探すべきは、リアリズムのパンパン宿だ。
舞台演劇とは創られた作品であり、嘘だ。
作品は何度も稽古され、結末が既に決まっている。そういうものだ。
現実からは乖離している。
その上で、お客様は演劇体験をするわけだけれど、演劇人たちはその演劇体験をより現実に近づけるように実験と発見を繰り返してきた。
そもそもが歌舞伎であったり、村周りの一座芝居しかなかった日本に西洋演劇がやってきて。
すぐに、西洋演劇的リアリズムについて、多くの演劇人たちが挑戦を重ねた。
赤毛のカツラを冠り、高い鼻をつけて、大真面目に、シェイクスピアをやっていたのだ。
リアリズムとは、なるべく本物に近づけていくという意味だ。
本物が金髪ならば、金髪のカツラを冠るのは、当然の事だった。
アングラのムーブメントは新劇的なリアリズムに異を唱えた。
演劇は、「私は金髪である」「ここは海の中である」と一言言えば成立するものだという発見だった。
彼らは、本物に近づくリアリズムをあっさりと捨てて、その代わりに、リアリティなるものを追及していった。
嘘だとわかっているのに、真実味がある瞬間が生まれる。
この真実味こそ、彼らの言うリアリティだった。
50歳を過ぎた親父が半ズボンを穿いて、小学生を演じる。
それなのに不思議といつの間にか小学生に見えてきてしまう。
そういう発見をいくつも重ねていった。
絵画で言えば、ピカソのような、前衛的な実験も次々と生まれていった。
ある意味で、時代が求めた芸術活動の一環だったのかもしれない。
テレビの時代がやってきて、現実のとらえ方が大きく大きく変容していった。
演劇も様々な進化の仕方を独自にしていった。
一方では、リアリズムでもリアリティでもなく、リアルそのものを扱おうとした。
即興演劇。インプロヴァイゼーション。
そこにはもう、台本すらなかった。
その場で役者が思いつくままに演じる。
先は何も決まっていない、まさにリアルな時間そのものを見せるという実験だった。
前衛的なだけではない。
コメディの中にも、アドリブを差し込むというリアルへのタッチが始まった。
その場で思いついたセリフを舞台上で言ってしまう。
多くのお客様は、他のセリフと違うアドリブであるとすぐに理解した。
リアリズムから始まって、リアリティを追及して、リアルそのものまで演劇は内包するようになっていく。
逆に、セリフで「セリフを忘れた」と言わせるなど、様々な方向から、リアルを取り扱った。
90年代に入ると、ハイパーリアリズムと呼ばれる新しいリアリズムが発現する。
それはこれまでのリアリズムに比べてずっと緻密な緻密すぎるリアリズムだった。
それまでの演劇とは違って、3か所で同時に誰かが喋っていたり、お客様に聞こえないような声で喋ったり、普通に客席に背中を見せて、その場で演じる。
それはある意味で、ドキュメンタリーの再現に近いような緻密さだった。
劇的なことも、特に起きるわけではない。物語もそうなってくると大きく動かせなかった。
その代わり、ほんの小さな生活の変化などが、空気を変えていくといった微細な表現を可能としていった。
「リアル」とは何か?たくさんの演劇人たちがそこと戦った。
映画製作では、リアリズムを強く意識しなくてはいけない。
もちろん、前衛映画などで言えば、観念的な映像もたくさんある。
けれど「セブンガールズ」は、物語だ。
物語に説得力を持たせる。物語をすんなりと受け入れていただく。
その為には、徹底的にリアリズムにこだわらなければ、小さな違和感が澱のように溜まっていってしまう。
そこはバラック小屋に見えなくてはいけないし、パンパン宿は貧しくなくてはいけない。
登場人物は栄養失調直前だし、フィルムから汗のにおいと、埃のにおいを感じないといけない。
嘘は一瞬でばれる。
どこかにないだろうか?
リアリズムの宿よ。
それとも、あのアトリエに宿を組むのかなぁ。
撮影日に。
おいらの目の前に現れるのかな?
リアリズムの宿が。
その時。
多くの演劇人たちが追求してきたリアルを、おいらはどうやって自分の演技に生かすだろう?
リアルに近づくのか?
リアルに見えるのか?
リアルと感じるのか?
それとも、リアルそのものなのか?
虚構の中の現実に挑まなくてはいけないぜ。
自分が通ってきた道。
この劇団に入ってからも、挑戦してきたこと。
そういうものが、全て出てしまうのではないか。
そんな恐怖感を感じた。
いや、恐怖じゃない。
武者震いってやつだ。