「空襲で亡くなった家族の写真」
2015 前方公演墳/「劇」小劇場 撮影 SKY
そもそも映画だとか。
そもそも演劇だとか。
なんのためにあるのだろう?
そんなことをつつつと思う。
古くは儀式と演劇の間に境界線はなかった。
いや、儀式と演劇と政治と歴史と学問。
全ての境界線が曖昧だった。
政治は神からの言葉で決まり、神の言葉は儀式で得た。
儀式は演劇であり、演劇は歴史を伝える手段でもあった。
いつか演劇は政治から離れて、娯楽になった。
娯楽でありながら同時に文字の読めない人々への情報伝達手段になった。
それは歴史や倫理、文化交流まで。学問にも近かった。
ギリシャ悲劇、吟遊詩人、西洋でも東洋でもそれは変わらない。
オペラも能も歌舞伎も浄瑠璃も、同じだった。
娯楽は地方を回り、広く情報を伝えていった。
やがて、教育は教育として確立されていく。
文字を読める人が増えれば、その立場は当然、新聞に取って代わる。
物語すら、小説に浸食されていく。
演劇はそれでもその役割を終えることなく、形を変えながら現代に残った。
そして、映像の時代がやってくる。
映画が、テレビが隆盛を極めていく。
それでも、演劇がなくなることはなかった。
演劇には演劇の、もっとずっと核の部分の魅力を追及するようになっていった。
そして今、インターネットが普及して、インフラが整備されていった。
映像を、ケーブルの繋がっていない端末で観ることが出来る時代が本当にやってきた。
世代によってはテレビよりもネットの方が広告効果が上がるケースまで増えてきた。
映画やドラマは、コンテンツの一つになった。
ここまで移り変わっていく中で演劇がなくならない理由は、実は二つしかない。
純粋に面白いということ。
そして、それをやる人間が途絶えない事。
面白くて、やる人間がいれば、なくなるはずもない。
大河ドラマを観た。
主演が堺直人、その兄が大泉洋、脚本が三谷幸喜。
演劇が歴史を伝えるというのは演劇の原点でもある。
劇団出身の三人が中心に進んでいく大河ドラマが放送される時代がやってきた。
おいらの師匠は90年代に既に日本の小劇場は非常にレベルが高いと言っていた。
それは西洋の演劇などを観てきた人の意見でもあり。
或いは西洋から観覧しに来た人の言葉でもあった。
フランスに招待されて断ったという話からだった。
日本の小劇場が、どこか劇団と、低く見られるのは実は日本国内だけらしい。
日本の歴史上、演劇人や芸人は河原者と呼ばれて、堅気ではなかった。
演劇を志すというのは、高尚ではなかった。
それが、今や、大河ドラマの中心に歌舞伎出身でも映画出身でもない俳優がいる。
映画も演劇も同じだ。
演じる人間のためにあるわけではない。
足を運んでくださるお客様のためにある。
舞台は目の前にお客様がいるからそのことを深く深く実感する。
小劇場出身俳優や作家が徴用されるのは、その理解が深いからじゃないかと思う。
きっときっと。
演劇も映画もなくなることなんかない。
なんのためにあるのか?
答えは一つだ。
全ての日常を生きる人たちへ。
その日々にほんの少しだけ、彩を。
たったそれだけのこと。
それだけのために、なくならないんだ。
「セブンガールズ」映画化プロジェクト
2016年2月22日(月)ゾロ目の日 23:59 終了