2017年03月30日

エンドロール情報の整理

エンドクレジットを整理する。
考えてみれば全ての情報が揃わないと、映像に当て込むことは難しい。
前半部分に空白があって、仮でスペースを開けているけれど、どうなるだろう?
足りない情報を再確認していかないといけない。
それでも、少しずつ組みあがってきた。
ある程度、情報がまとまったら、今度は、色々確認もしなくちゃいけない。

エンドクレジットは刻印だ。
この映画に関わってくださった皆様の名前がここに記載されていく。
普段映画を観ても、どうしても、全てを観ることは出来ないけれど。
けれど、とってもとっても、大事なことだ。

ハリウッド映画のような大きなプロジェクトだと、ものすごいクレジットになってる。
あちこちのスタジオで分業していて、CG一つとっても、1つのチームに25人ぐらいいたり。
それが何チームも連続で出てくるから、もはや、読み取ることも出来ないぐらいの人数になっている。
それでも、省略することなく、刻印していく。
この作品は、この人たちで製作されたのだという証拠だ。

映画をテレビで放映すると、このエンドクレジットが流れないことが多い。
あれは、なんていうか、とても悲しいな。
まぁ、もちろん、放送する側からすれば当たり前のことなのだろうけれど。
そういえば、エンドクレジットのないテレビ番組も増えてきた。
テレビドラマでさえ、最終回まで詳しいクレジットは出さなかったりする。

微妙な問題もある。
ちょっと前なら大した問題ではなかったのだと思うけれど。
どこかで誰かにお世話になったから、名前を載せようとなったら、本人確認が必要な時代だ。
小道具をもらった人がいるから名前を載せようなんて、簡単にできるわけではない。
もちろん、自分自身で公開している情報なのであれば、特段の問題はないけれど。
公開していない名前を勝手に記載すれば、個人情報保護法案に抵触する。
一般的には、名前と電話番号、電話番号と住所、など2つ以上の情報が記載されて、初めて、個人情報と言われるけれど。
とは言え、名前だけでも、今の時代はとっても気にしなくちゃいけない時代になった。
映像は残るものだから、なおさら、繊細に考えなくてはいけない。

もちろん、スタッフさんは別だ。
スタッフさんにとって、名前は看板だからだ。
看板である以上、むしろ、掲載しないわけにはいかない。
だから、プロのスタッフさんなのか、そうではない協力者なのか。
きちんと、見極めて、確認すべきところは全てしなくてはいけない。
最低限必要なことは調べておいて、問題にならないように、確認が必要だ。

ある程度整理が終わってから、劇団員にも確認しなくちゃいけないと思いつつ。
まったく、その辺の部分で、ルールの整備が出来ていない。
この人の名前をここに掲載してください!と言われたまま掲載して、実は、NGだったじゃ目も当てられない。
繊細な対応が必要だから、きちんと、ルールを記載して、確認しなくちゃなぁと思ったまま。
別の作業ばかりやっているような感じだ。

今、ある情報の整理が出来たら、ルールの整備だな。
それが出来たら、劇団員にも、関わってくださっていて、おいらが知らない人がいたら教えてもらわなくちゃだ。
もちろん、劇団だけではなくて、各スタッフさんもだ。

最終的にどれぐらいの人数になるだろう?
想像もできないけれど。
それが、きっと、作品の広さにも繋がるんだろうなぁ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:49| Comment(0) | 編集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月29日

仕事以上

整音作業をするマシンについて、実はちょっと色々複雑だったりする。
KORNさんの助手さんのMACのノートに入っているProtoolsでの作業。
その作業を、助手さんと一緒にしてくださるエンジニアさんが見つかったわけだけれど。
実はエンジニアさんの環境では、現在のファイルを読み込むことが出来ない。

いや、正確には、書き出して読み込めば、どんなソフトウェアでも対応は出来るのだけれど。
書き出して、整音して、もう一度書き出して、KORNさんが更に取り込まなくてはいけない。
そうなると、その間にトラックが変わったり、微妙に色々面倒が起きる可能性がある。
最悪、せっかく、整えたのに、反映できなかったなんてことにもなりかねない。
そうならないためには、やはり、同じProtoolsでの作業がベストだ。

実はエンジニアさんの使用しているProtoolsとヴァージョンが合わない。
もし、あえば、エンジニアさんの端末で作業が可能になる。
そうなれば、いつも使っている液晶モニタや、コントロールフェーダーを活用できる。
WinとMacのOSの違いは別にどちらでも変わりはないけれど。
さすがに、アプリケーションは同一じゃないと、読み込むことすらできないのだ。

ところが、エンジニアさんは、新しいOSと、Protoolsを購入済みだった。
ただ、様々なハードウェアのドライバー更新など、かなりの大作業になるからアップデートをしないでおいたらしい。
ただ、ソフトはあるし、いずれ更新するから、これを機にアップデートをして。
もし、可能であれば、自分の慣れた環境でも作業を出来るようにすれば・・・と言っていた。
アップデートに失敗したら、助手さんのノートのMACごと借りて作業するという流れになっていたのだけれど。
3台のPCにインストール大会をしてみて。
実際、一台にはインストールは出来たのだけど、やはり、立ち上がらないという状況までは知っていた。
やはり、PCごと借りての作業に落ち着くなぁと思っていたところだったのだけど。
今日来た、連絡は、想像を超えるものだった。

「購入したPCが届いたら・・・」

え?購入?
これを機にアップデートまではわかる。
実際に、ソフトウェアは持っているとも聞いていたから。
どこかでアップデートしなくちゃいけないと思ってたというのもよくわかったのだけど。
まさか、これを機に「PC購入」までとは思っていなかった。

もう、ハラハラして、このためにだったら、申し訳がなさすぎると伝えると。
実際にLIVEのレコーディングのサブマシンを買い替えたいと思っていた時期だという。
狙っていた端末も元々あったんだよなんて、返信が来る。
多分、本当のことなのだろうけれど、気を使ってそういっている可能性だってあるし。
このお願いがなければ、間違いなく、アップデートもなかったはずだ。

もちろん、助手さんのMACでマウス操作だって、目的の日程までに整音を完成させるだろうと思う。
後ろから観るだけでも、マウスだけでもその作業スピードはすごかったし、時間的に間に合うと感じた。
それと、作業が始まったトタンのその集中力。
一気に、自分の作品として、ディティールにまで入り込んでいく作業。
人によっては面倒だなぁと感じるような部分まで、徹底するという事は、同時に楽しんでくださっているのが分かった。
だから、その作業のポテンシャルを更にあげたら、どうなってしまうのだろう?と、どこかドキドキもしている。
映画の音を整理していくという作業を楽しんでやってくださるとすれば、それ以上はない。

申し訳ないなぁという思いと。
そうなった時の作業のすごさの期待と。
感謝の思いがないまぜになる。

いつもいつもだ。
おいらは、人にお願いをする。
おいらに出来ることって、お願いした以上に自分も頑張ることぐらいしかない。
任せっぱなしにしないで、自分で出来ることは全て自分でやることぐらいだ。
でも、そう思って頑張っているのに、圧倒される。

思うのだけれど、それは、仕事以上だ。
プロフェッショナルは完璧な仕事をする人のことかもしれないけれど。
実は、更にその上がある。
仕事の対価が金銭だとすれば、そんなものを越えてしまうもの。
とてもじゃないけれど、プロには出来ない仕事というものがあるんだ。
この「セブンガールズ」という企画で、おいらは、何度、そういう機会を目にしたのだろう。

多分、仕事という認識では到達できないレベルがある。
熱中してしまうというか、衝動というか。
思いから始まる何かがないと、行けない世界だ。
本当にすごいんだぜ。すっごいんだ。
そういう世界の向こうに。

「Seven Girls」が生まれようとしている。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:35| Comment(0) | 編集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月28日

劣化させる

音を整えていくと書くと、良い音にしていくのだと思いがちだ。
けれど、実は音を加工するというのは、劣化だというのは、意外に思われるかもしれない。

基本的に録音というのはなるべくそのままの音を録る。
人間の耳に聞こえている以上の情報を全て空気感ごと録音する。
人間の耳に聞こえる音を可聴帯域と言うのだけれど、それをはるかに超える情報量の音声データを収録していく。
耳に聞こえない音の情報もあるからこそ、加工する時に余裕が生まれる。
イコライザーで、本来聴こえていなかった帯域の音を持ち上げて聴こえるようにしたりも出来る。
或いは、そもそも聞こえないけれど、混ざった音声になると邪魔になる低音をカットしたりする。
ローカットフィルターなどは、一般家庭用オーディオ機器でもあるから聞いたことがあるかもしれない。
低音がなくなると、高音の抜けが良くなったり、全体になった時に変わったりする。

コンプレッサーは音を圧縮するわけだし、イコライザーだって、どこかの帯域を持ち上げたり削ったりする。
響きを変えていくリバーブにしても、音声情報を疑似的に反響音を加えていくのだけれど。
反響してきた音は、当然、元の音よりも痩せている情報を加えていることになる。
やまびこ効果の、ディレイだって、当然、音の減衰効果を加えることになる。
レベルが下がり、倍音が減り、音が劣化していく。

録音された音の持つ豊富な情報をいかに劣化させていくのかがエンジニアの仕事だから。
そんな言葉を聞いて、なんというか、とても哲学的なことなんだなぁと、思ってしまった。

けれど、結果的にそうやって、劣化させていった音を重ねていくことで、音楽が出来る。
ギターは、ギターの持つ一番良い音だけを抽出して。
ベースは、本来、持っている音を太くしたり、より響かせたりする。
ドラムには、ガレージのようなリバーブをかけてみたり。
ボーカルには、フランジャーをかけて、心地よい揺れを加えたりする。
そういう積み重ねで、音楽を製作していくのだ。
元々持っている音の情報量をどんどん削っていくことで聞こえてくる音がある。
実際、日本の歌謡曲はとてもボーカルが聞きやすくミックスされているけれど。
メロディの帯域に近い、ギターやキーボードなどのイコライザーをいじらないと、声が前に出るのは難しかったりする。
まぁ、それでも、前に出てくる太い声の持ち主もいるのだけれど。
欲張って、楽器の持つ全ての音を出してしまうと、かえって、もこもこして、お互いを食い合ってしまうのだ。

こういう知識が、自分の中にすっと落ちていく。
作品を作る要素の一つである自分の芝居に置き換えることのできる哲学だからだ。
例えばどんな作品であったとしても、出演者全員が自分が目立つことばかりを考えれば、結果、作品がダメになる。
やっていることは劣化のようだけれど、実は、そうではなくて、不必要なものを削る作業と考えられる。
全員がバランスを考えて、全体感を観ることがもしできるのであれば。
全員の芝居がきちんと見えてくる作品になるという事だ。

まぁ、実際には全員が全体感を見ながら芝居をするなんて、とっても難しいことだ。
そこには、どこか客観性も必要になってくるから。
だから、舞台には演出家がいるし、映画には監督がいる。
ただ、役者の中にも何人か、そこを理解する人間がいたほうが、確実に作品は深くなる。
そして、当たり前のことだけれど、ドラマでも映画でも、そこが見えてるんだなぁという役者は、芝居がとても良いと感じる。
すぐに評価されることがなくても、確実に、いずれ評価される俳優だった。
ハヤリスタリの商売だから、急にとっても評価される俳優ももちろんいるんだけれど。
長く、色々な作品に呼ばれて、いつの間にか高い評価を得ているような俳優は、確実にそこが違う。
すたれるようなことがない。
自分が勝負する場所と、自分が全体になじむ場所をきちんと組み立てているのがすぐにわかる。
何か映画でも舞台でもドラマでも観て、やけに印象が残らない役者がいたら、もう一度見てみるとわかったりする。
必要以上にでしゃばってしまっていたりして、勝負する場所がかえって目立たなくなっているのがすぐにわかる。
あるいは、結果的に編集の都合で、カットされてるシーンがあるぞ・・・と見当がつく。

アフレコはなるべくクリーンな音声の収録をした。
正直、ここまでクリーンじゃなくていいだろというぐらい、音情報が多く、声が太い。
けれど、撮影現場で収録したセリフは、当然、音情報がそこまで多くはない。
ガンマイクであれば、周辺の音も同時に収録しているし、ピンマイクだって直接マイクに向かって喋っていない。
だから、アフレコに差し替えた瞬間に、急にクリアな音声が出てきてびっくりしてしまう。
そのクリアな音声をどんどん劣化させていって、より、収録音声に近づけていく。
もちろん、収録音声は音声で、聞き取りやすいように加工していくのだけれど。
ノイズを削ったり、薄く乗っているヒスノイズを取って行ったり。
そうやって、劣化させて混ぜていくことで、違和感をなくして、作品になっていく。
効果音もそうだ。今ははっきりしていても、劣化させて混ぜていけば、より効果的になっていく。

だったら、撮影現場に似た雰囲気にして、最初から、音情報の少ないアフレコをした方が早いと思う人もいるようだけれど。
エンジニアさんからすれば、それだけは、しないでくれと言われることがほとんどだ。
クリアな音声を痩せさせることは容易だけれど、瘦せた音声を持ち上げることはとても難しいからだ。
似たような音声で混ぜてしまうのが、実は一番、違和感になったりするから、後で修正しづらくなっていく。
かぶせた瞬間はとっても、クリアだと違和感が大きいけれど、それが正解。

こんなことも、哲学的だなぁと思う。
豊富な引出しを持ちながら、その中からチョイスしていく。
そういう芝居のテクニカルな部分によく似ている。
例えば、カメラには映っていなくても、相手役の感情が揺れるように視線を合わせてから、すっと外したりする。
それが、相手役の感情に火が付くキッカケになって、結果的にそのシーンがよくなるなんてことがある。
そういう細かいテクニックは、気付かれないことも多いし誰もみてもいないし、評価もされないけれど。
まわりまわって、自分の評価に繋がっていく。
自分がカメラから映る位置でだけそれをやっても、相手役の感情が揺れないのだから。
まったく映っていない芝居こそ、豊富な情報になるのだなぁなんて、置き換えて考えてしまう。
だから、芝居は相手役に恵まれないと、不幸なんだよなって、思ったりもする。
豊富な情報の中から、ピックアップするから、観ている人の心に届くんじゃないかなぁって思う。

整音一つで、そこまで考えてしまうのだから病的なのかもしれない。
けれど、撮影後のポストプロダクションは、おいらの様々なフィロソフィーを肉付けしてくれている。
考えてみれば、カラーコレクションも劣化作業だったりすることを思ったりする。
ソリッドにしていくこと、作品の流れを読んでいくこと。
それは、自分がこれから芝居をしていく上で、大事な大事な宝になるなぁと改めて思う。

誰も気づかなくても。
それこそ、演出家も監督もプロデューサーさえ気づかなくてもいい。
こっそり作品を豊かにする方法論を持っている。
そんな役者って、すっげーじゃんなんて思う。
おいらの思う理想にはまだまだ道が長いけれど。
確実に、違うレベルに踏み込んでいるなぁと、感じた。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:09| Comment(0) | 編集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする